何がきっかけなのかはわからないが自己の連続性が途切れる
連続性が途切れると前の自分が何をしていたとかどういうことをひとまずの目標としていたのか何もかもあやふやで思い出せなくなってしまう
そうした途切れた自己の積み重ねによって何をしていたのかほとんど記憶がない二十数年が形成され、人生そのものが無になってしまった
悪行が積み重なったのですらなく空間がぽっかりと空いてしまった状態であるせいでどうするべきだったのか何が間違いだったのか、そういったことを考えることすら困難である
これを公言するだけで自己責任論をぶつけられ、意識してないのが悪いとか自分を甘やかしてるだけとか責任感がないとかそういうふうにしか見られないことは明白なので人に相談するということは無駄でしかない
自宅の鍵を閉めて出かけたかどうかわからなくなる瞬間を大きくしていったのがこの状態に近い
毎回出かけるたびにそうなるのなら対策もするがふとした瞬間いきなりわからなくなる、それもときどきという状態ではどうしようもない
一度もそういうミスを犯したことがないという人間に石を投げられるのなら納得がいくがそうではない方々にお前がおかしいお前が間違っていると責められるのはいささか疑問である
わからなくなる瞬間は常に不随意で、それをコントロールするために常に意識しろと言われてもそれは息をするのを忘れないように常に呼吸をする意識をしなさいと言われているようなものだ(少なくとも私にとっては)
自分の責任逃れのために他人に責任を被せようとしているわけではない
この事象に苦痛を感じているのは確かだがそれが他人のせいだとは思っていないしおそらくは自分の脳に問題があるんだろうなと薄々思っている
こうやって構造上に欠陥があると考えることを責任逃れと見られることはよくよく考えればおかしいことではないか
意識すればできると言ってくる方は意識せずとも問題なく動作するスペックの脳をしているんだから、できない方にできるを押しつけられてもそもそも常に意識するということが困難である
人間と機械を一緒にするなとか論点をずらすなと言われそうだが、あえて例えに出すとメモリ容量が潤沢なPCと貧弱なPCでは常駐で起動できるソフトの数も一度にこなせるタスクも当然違う
なぜ人間だけが特別であると信じていられるんだろう
結局脳内物質の働きで動いてるだけなのに
好き好んで無の人生を送っているべきではないこと、別に理解されなくて結構です
ただ感じている感覚を言語化して投げ捨てたかっただけで感情に寄り添ってほしいとか慰めてほしいとか微塵も求めてないです
ただこういった事実のみが存在している